奇跡の復帰

障害を持って10年目になる者です。

ボクシングの練習が終わって原付バイクで職場に向かっていると嘔吐したあとに頭が痛くなった。

交通量が多い場所でしたがなんとか歩道につけて近くのお店の方に救急車の依頼を頼んだ。

そこから記憶がない。

 

これもリハビリ病院に入院中にボクシングの仲間が

ボクシングのスパーリング(練習試合)の相手の写真を持ってきた時に

「ブワッ」という感じで、記憶が戻った(思い出した)。

 

手術した病院の様子も印象に残っていないままリハビリ病院に転院し、

母が言うには「暴れていた。」と言っていた。

自分はその記憶がない。

手術した病院の様子も思い出せない。

2か月ぐらい手術した病院からリハビリ病院へ移動し

リハビリ病院での入院中は見守りが無いと1人で行動してはいけなかったので、

トイレに行くのにも看護師さんをナースコールで呼んで、車いすに移動するのにも人の手が必要だった。

 

だいたいの生活の流れは、ベットに寝てテレビを見ながら

リハビリの先生がリハビリの時間になれば迎えに来てくれた毎日。

たまにディールーム新聞を見に行くぐらいの行動。

お風呂も週に2回と少なくリハビリで汗をかいているのに

毎日お風呂に入りたいのに入れなかったので、臭かった。

立位姿勢になるのも嫌いでとにかく寝ているのが一番よかったが、

リハビリを頑張ったおかげで杖と装具はいるが、歩けるまでに回復した。

 

10年目になって運動や整体の資格しか持っていない自分が全然違う道へ挑戦した。

パソコンの資格も取り自信がついたので今、デスクワークの仕事につけた。

その前まではこの体で整体師として働いていたがお客様に逆に「大丈夫ですか?施術できます?」と言われ、

悔しい思いをしながら、何とかしようという気持ちで整体の仕事をしていたが、あきらめた。

今後はこんな自分でも「自分の施術ではダメだ。」という方のみ施術するようにした。

 

障害を持つと自分で出来ることも限られるので出来ることはして、出来ないことはヘルプをだすようにした。

これもすごく葛藤がありイライラした。

そんな中でもいつでもなんでも挑戦しできないことは心がけるようにはしている。

周りの方にはすぐに「大丈夫?」や「何か手伝いましょうか?」などすぐに言われるが、

少しその方の様子を見てから声掛けて欲しいと思う。

声掛けはありがたいのだすが、「余計だなぁ」と思うことが多い。

人とのコミュニケーションは難しいと良く思うようになった。

障がい者になって初めて分かったことだった。



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