病院では出来ないリハビリで自信をつけた話

私の妻は今から20年前に脳出血で倒れ、それ以来ずっと左半身麻痺で現在に至ります。

今は60歳を越えましたが、杖を使いながらも何とか一人で歩くこともでき、

平日は作業所へ通って簡単な手作業の仕事を続けています。

 

発症した時はとても大きな脳出血で、かなりひどい後遺症ではありますが、

今も気持ちは元気で過ごすことが出来ていると思います。

妻が入院して2か月ぐらい経った時、私はたまたま雑誌で、

ある武術の先生がやっている独自のリハビリの事を知り、さっそく電話してみました。

するといつでも道場へおいでくださいとのこと。

その頃はもう、妻は週に一回の外出も許されていましたので、

病院のリハビリを受けながら、その道場でのリハビリを始めることが出来ました。

 

大阪市の西成区にある小さな道場には若い武術の先生が居られて、

まず最初は畳の上に寝かされて、足の指を一本ずつほぐすことから始まりました。

リハビリの時間は2時間で、初めの頃はほとんど足の指をほぐすのに時間を費やしていましたが、

やがて身体を動かすリハビリに変わって行きます。

 

立て鏡に向かってしっかり立って、背筋を伸ばす。

そしてそういう自分の姿を目に焼き付ける。

杖を突きながらでいいから畳の線に沿ってまっすぐ歩く。

進路がずれたら自分で直す。

 

そんな事の繰り返しで、自分が出来た事を全部自分の目で確認するというリハビリです。

歩ける距離が延びたら、今度は道場の中を部屋の隅っこに沿って歩いて回るようになりました。

 

更にある時からは、道場を歩く時にはバットや本、

その他もろもろの障害物がわざと置いてあるようになりました。

それを先生はニコッと笑って見ているのです。

 

道場の中でしっかり歩けるようになってくると今度は、外に出て普通の道を歩きました。

西成区の道路の多くは一方通行で道幅も狭く、車は来るし自転車も来ます。

そんな中を歩くのですから、最初は妻は怖がって足が動かなくなってしまいました。

そういう時は「歩かないと帰れませんよ」と言われます。

出てきてしまったからには歩かないと帰れないですね。

先生は妻の後ろ、私が斜め前について道場の近くの町を回ります。

 

すぐ近くには複線の踏み切りがあって、まさかと思っているとこれも渡るのです。

いつ警報機が鳴って遮断機が下りるか分かりません。

レールの溝をひとつひとつ越えて、踏切を渡るのに5分以上かかりました。

 

そして渡った後、ゆっくり振り返って自分が渡った踏み切りを見ます。

「この踏切を渡りましたよ。」

そしてそこは道場からは50メートルほど離れていて、その距離も自分の目で見るのです。

ここまで自分の足で歩いたんだと、イヤでも思い知らされます。

 

目の前に二階建てのアパートがあって、二階へは鉄の階段で登るようになっていました。

先生はアパートを見上げて、「これを登ってみますか?」と、思いもよらない事を言い出しました。

いろいろなことが出来たという既成事実を重ねてきた妻は、

その頃はもういろいろやってみる気になってたのですね。

案の定「登ります」と言い出しました。

この時も先生は真剣です。

しかし半身麻痺でも階段を登るのは高さを怖がらなければ何とか大丈夫なのです。

 

ところが降りる方はそうは行きません。

登るよりも降りる方がよっぽど難しくて危ないのです。

最後に地面に降りるときは右手で手すりにしがみつき半分以上私と先生に抱えられていましたが、

登って降りてきたことには違いありません。

ここでまた改めて階段を眺めて自分の目に焼き付けたのでした。

 

車や自転車や人が行きかう狭い道。

いつ電車が来るか分からない踏み切り。

急なアパートの階段。

半身不随になってしまった自分にはとても歩いたり登ったりできないと思っていた所へ行けたという経験。

それも一度ではなく何度も既成事実を重ねることで、

この身体でもできない事は無いんだと言う大きな自信のようなものが、

妻の気持ちの中に芽生えたのは間違いありません。

 

それは、気持ちのリハビリともいうべきものでしょうか。

リハビリで身体をいくら動かしても元に戻せない何かが、このリハビリでまた取り戻せたような気がします。

妻が今も仕事に取り組めているのも、この時の気持ちが根っこにずっと生きているからだと思います。



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