障害を持つ人に私達が出来ること

水頭症で障害1級を持つ友達がいます。

自動車教習所で同時期に入所したということが彼女との出会いです。

 

すでに彼女は障害を持っており、障害の程度は、

まっすぐに歩けないことや目の焦点が合っていないこと、味覚がないなどでした。

正直なところ、もし彼女が無事に免許を取得して社会で車を運転すれば危険であることは確かでした。

しかし、彼女はそのような心配など全く見せず楽しそうに教習所に通っていました。

 

教習所までの送迎バスで、度々、隣同士になり、おしゃべりをするようになりました。

当時、彼女は18歳、障害を持っていても、きっと幸せになれるという若さがありました。

結局、彼女は免許取得できず卒業したわけですが、

障害は、本人に何を学ばせようとしているのか。なぜ彼女なのか。

障害を持つ人は、長い一生を幾度となく訪れるハードルを乗り越えていかなくてはなりません。

 

なぜ、神様はこの人に辛い試練を経験させるのかと考えざるを得ませんでした。

五体満足な人でも、犯罪を犯し人を傷つける人、いじめや嫌がらせをする人がいる一方、

障害を持ってしまったがために、しなくてもよい苦労をしなくてはならない人もいます。

その違いは何なのか。

 

精神界の世界の話ならば、前世で悪いことをしたから今世で苦労をするという考え方をする人もいるでしょう。

現実的に考えるならば、障害を持ったとしても生きていかなくてはならない、

だから、今を毎日を、淡々と暮らしていけば良いという考え方をする人もいるでしょう。

考えれば考えるほど、なぜ障害を持たなければならないのかという疑問が消せません。

 

この世は、格差社会、健常者、障害者に対してもそれは言えます。

選挙の時期になると、弱者に優しい国づくり、街づくり。

と発言する候補者がいらっしゃいますが、皆、健常者です。

偏見を恐れずに言えば、このように発言する人は、

弱者のことは所詮他人事で善人ぶってるだけで行動が伴っていないと感じます。

その影で、弱者は、時には涙を流し、障害と向き合い生きています。

 

彼女と友達になり、かれこれ15年が過ぎます。

いつも明るい彼女に元気と勇気をもらっています。

政治家のように資金力、統率力等がない私達が現実的に出来ること、

それは、障害を持った人に対して差別的な視線を送らず

健常者と同じ人としての視線を注ぐことだと思います。

 

健常者の冷ややかな視線は、障害を持つ人に対する差別であり、

人権侵害だと考えても良いのではないでしょうか。

簡単なことです。決して難しいことではありません。

弱者に対する小さな配慮が出来る人こそが、人間力が高い人だと言えるのではないでしょうか。



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