前向きに躁うつ病を生きる

私の病名は「躁うつ病」です。

何でも、脳の神経伝達物質が増えたり減ったりする病気なのだそうで、

増えると行動的(躁状態)、

逆に減ると非行動的(うつ状態)になってしまう

内因性の精神病の一つです。

 

この病気で有名なのは、まずゲーテ、ゴッホ、チャイコフスキー、ヘミングウェイ。

日本人では故・北杜夫さん、中島らもさん、

最近では芥川賞作家の絲山秋子さんらがおられます。

 

原因は人によって様々ですが、

ドーパミン等の脳内の神経伝達物質の機能が変化している、

と一般的には考えられています

(なお詳しいことは現代においても不明)。

 

私がこの病気になったのは、三十四歳の時。

当時、県内の公立中学校の国語科の教諭をしておりました。

が、以前の学校では生徒指導にさんざん悩まされていたので、

海沿いの小さなのんびりした学校に転勤を希望したのです。

 

ところが、いざ転勤してみると、びっくり。

その学校は当時の文部省の武道推進校で、

その年の秋に「全校剣道」という公開研究授業をしなければならなかったのです。

 

私は転勤してすぐ校長室に呼び出され、

上司から「全校剣道」のチーフをやるよう、命じられました。

剣道もワープロもパソコンも分かりません、と正直に私が言うと、

上司は「大丈夫。教えるから」と言って、その仕事を無理やり押し付けてきたのです。

 

それ以降は、毎日が「地獄」でした。

三年生の学級担任、一年から三年生までの国語科の授業、

生徒指導主事、卓球部顧問、図書館司書等に加え、

毎週金曜日に二時間、全校剣道の時間が設けられたのです。

 

先生方には、事前に「学習指導案」という授業の計画書を毎週提出。

そのため、ワープロと剣道のガイドブックを片手に、夜十時まで学校に残り、

アパートに帰宅後もビールとコーヒーをがぶ飲みしつつ、

朝四時頃までワープロのキーを叩き続けていました。

 

ところが、肝心の上司はと言えば、剣道やワープロ等については一切教えてくれず、

自分の空き時間になると学校の近所に釣りに出かけたり、体育館で寝ている始末。

校長や教頭はこれまた転勤族で、全く自分や学校の名誉のことばかりで、

私に対しての部下のフォローももなし。

 

せっかく連日徹夜で提出した「学習指導案」もアドバイスではなく、批判ばかり。

夜、六時頃になると、「じゃ、お先に」と言って、さっさと帰って行ってしまうのでした。

 

女性の先生は女性の先生で、「家族が待ってるから」という理由で、

五時きっかりになると、部活動で生徒たちが残っているにもかかわらず、

公務員らしくこれまたさっさと帰ってしまい、

空き時間にはワープロでゲームをやっていたほどひどかったのです。

 

その学校は、何しろ海から少し離れた山間の小規模校で、全校生徒が七十七人。

教員数は十人くらいで、その約半分が女性の講師の先生。

当時の私としては、転勤したてで何も分からず、

また講師の先生にも頼るわけにもいかず、

ひたすら根性論で「ちくしょう、見ていろ、文部省の役人どもめ!」と思って、

多忙な仕事を続けておりました。

 

すると一学期終了後、腰が「く」の字に曲がり始め、激痛が伴うようになったのです。

夜はほとんど眠れず、気力も衰えていきました。

学校はすでに夏休みに入っており、トイレに行くことや階段を上ることも一苦労でしたが、

何せ三年生の学級担任だったもので、毎日苦痛をこらえながら、

高校訪問や三者面談を行っていたのです。

 

しかしながら、とうとう限界がやってきて、総合病院に行くと「椎間板ヘルニア」との診断。

その後もあれこれと病院を回ったあげく、「うつ病」との診断を受けました。

 

一時私は「職場復帰」をしたのですが、

今度は翌年の二月、父が歩道橋から真っ逆さまに投身自殺。

自営業の経営不振が原因でした。

私は葬式後「躁転」し、精神病院に何度も入院しました。

「躁うつ病患者」となったのです。

 

今でも障害者二級の手帳を所持しながら、学校退職後も通院治療をしています。



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