なぜ、私は生きているのか?
多分、何か意味があるに違いないと教えてくれた親友の存在が、
私が障がいを持ってからの新しい人生の始まりでした。
私は障がいを持つなどこれっぽちも思っていませんでした。
皆さん、健常者の方もそうだと思います。
しかし、障がいを持ってしまった事で、泣いてばかりでは居られません。
一人娘の私が自分達の目の前で倒れた両親のためにも。
私は、出逢う人に恵まれている事を実感する瞬間が多々あります。
今になって、新しく出逢う人々の優しさや厳しさが、
私の事を思ってのことだと気付くことができるようになりました。
でも、苦しみながら約25年間生きてきて、やっとたどり着くことの出来た現在は、
未だ通過点に過ぎないと思っています。
生まれてから今日まで過ごしてきた日々の中で、
最も重要でかつ最高な日と、最も最低な日々を聞いて頂きたいと思います。
私は、大阪で産まれ、その時から“仮死状態”で生まれてきました。
母子手帳には、“その後蘇生”と書いてあります。
しかし、体重、身長は一般的な新生児と変わらず、
その後は幼稚園、小学校の3年生の2学期途中まで健康に育ちました。
そして、父の転勤で福岡に来ました。
(①)教壇の横に立ち、大阪弁であいさつをした時、みんながドッと笑いました。
大阪弁が面白かったそうです。(後に知りました。)
私は何だか嫌な思いでしたが、担任の先生が良くしてくださって、
私の家に一番近い友達に「まだ、道が分からないから一緒に帰ってあげてくれる?」
と言ってくださいました。その友達が福岡に来ての第一号の友人です。
40年経ちますが、今でも連絡を取り合う仲です。
時は早く経つもので、それからというもの8才から20才までの間に色々な事がありました。
受験も経験しましたし、趣味でしていたエレクトーンで九州大会まで行ったり、もちろん、恋もしました。
高校時代(②)には、エレクトーンの方に力を入れていましたので、
学業の方は、1年生の時に比べれば、1年間で偏差値が10ずつ落ちていきました。
当時は音楽の大学も勧められましたが(③)、
私としては完全燃焼をしたエレクトーンの大会だったので、ここからまた一から始めようと思い、
音楽の道ではなく、長崎の短大で栄養士の勉強をすることを選びました。
(④)そして、栄養士の学校を卒業後、地元の食品会社に就職しました。
(⑤)私は栄養士の仕事に興味があり、食品の会社で何か役に立ちたいと思っていましたが、
現実は、朝来てタイムカードを押し、帰りにまたタイムカードを押すだけの繰り返しでした。
1度、朝電車に乗って、降りる駅で降りずに博多駅まで行って、
そこから公衆電話で会社に「1週間休暇をください。」と言ったところ、あっさりと許可が出、
「私は、会社に必要な人間なのかな?」と思ったこともありました。
その1週間は、私は野球が好きですので、
まず東京に行き、東京ドームを初めに神宮球場、ナゴヤ球場、甲子園、広島市民球場、
と1週間で行けるところの球場巡りをしました。それが健常者だった頃の一番の思い出です。
会社に戻っても、仕事らしい仕事をした覚えがなく、入社後10ヶ月で退職しました。
(⑥)その後は、生命保険のセールスをしました。
事務所には個人の成績グラフがあり、それが自分の仕事の成果を目に見える形で反映してくれていました。
もちろん、それに見合ったお給料も頂けるなど、頑張りがいがありました。
それが楽しくて、無我夢中で働きました。
(⑦)しかし、保険のセールスが4年目を迎えた時の事、私の人生に転機が起こりました。
今まで喘息の持病を持っていたにもかかわらず、年末年始にも駆け回っていたためか、
結婚を約束していた人とお正月の初詣に行く前に発作が起こり、両親の前で倒れてしまったのです。
しかし、救急車は呼ばず、自分達で車に乗せて病院へ行った為、
心停止後3ヶ月間、植物人間状態となり、未だ後遺症が残っています。
今は、大好きな野球も月に一度程度、観戦しに行きます。
それが一番の楽しみです。
でもそれは、周りの人たちの助けがあるからこそできる事です。
未だに上記の①~⑦の出来事の内で
「ここが私のターニングポイントだった」と思われるところはありますが、
なってしまったものはしょうがないと思います。
そして、私の一番の親友が言います。
「生きている限り、誰だって何かあるとよ。」と。
そうなのです。
昔、健常者だった頃、大阪弁で挨拶をして笑われた事、
食品会社ですんなり休みを下さった事など、
何か私が勘違いしていることがあるかも知れません。
それが生きているという事なのかも知れません。
今はただ、前を向いて、笑顔で過ごしていきたいと思います。