小学校低学年の頃でした。
学校の健康診断で発覚するまで自覚症状はほとんどありませんでした。
最初は、多少聞こえにくいかな?と思うくらいでした。
お医者さんからは、軽度の難聴があるから、ちゃんとご両親に今日の事説明してね、
くらいだったと思います。
けれど、わたしはなかなか言い出せずにいました。
そうして数日が経過しました。
なんだか少しづつ、片方の耳が聞こえにくくなっていき、
だんだんはっきりとそれが分かるようになりました。
ある日、私は母に、学校で健診があったこと、
そこで難聴の疑いがあるということをついに話しました。
母は、なんでもっと早く言わないのか、と怒りました。
家の中は、両親が不仲だったので気を使い、わたしは話を切り出せなかったのです。
さまざまな病院を転々としました。
けれど、いいお医者さんには出会えず、
困った両親は噂を頼りに県外にある大きな病院まで私を連れて行きました。
今にして思えば、当時はナビなどない時代で、
遠い山道をよく迷えず連れて行ってくれたなと思います。
病院までは、数時間かかるので、前の晩から出発し、着くのは朝方6時くらいになります。
こんなに早く着いても訪れる患者さんがとても多いので、
待ち時間はかなり辛抱しなければいけませんでした。
そうして、長い列に並び、受付をすませて、長い待ち時間がすぎてやっと診察を受けることができました。
わたしは、突発性難聴だと聞かされました。
原因は不明だが、何らかの心的ストレスが体に影響し、ある日不調をきたすというものでした。
心身症の一種なのかもしれません。
心当たりは、小学校に進級して急に環境が変わったことや、
最近、両親が不仲なうえ私に厳しく接していたこと、
野球のボールが飛んできて耳に強く当たったこと、
リンゴ病で高熱を出したことなど、
さまざまのことが浮かびました。
早期発見だったなら、ビタミン投与や、処置の仕方で回復できたけれど、
時間が経過してしまっているので、これ以上聴力は戻らないだろうといわれました。
わたしにボールをぶつけたお兄さんは知り合いでしたが、わたしの事情を知って気まずい様でした。
こうしてわたしは小学2年で難聴になりました。
その日から、定期的に病院に通うわたしの生活が始まりました。
診察はわたしにとってとても苦痛でした。
電話ボックスのような四角い部屋に入り、
小さな窓からは、顔をマスクで覆った看護婦さん二人が見えています。
光は、その窓からしか届かないので、とても薄暗いのです。
頭にヘッドフォンをつけ、音が聞こえたら、ボタンを押す。
私は、片方が難聴だったので、いつも反対側だけが聞こえず、
いつまでたってもボタンは押せませんでした。
それが終わったら、鼻から長い棒のようなものを突っ込まれて、空気を入れられました。
子供だったし怖くて、聞こえる検査以上にこれが嫌でたまりませんでした。
それでも何とか通っていました。
これで聴力が戻ったのかというと、私の聴力はお医者さんが言うには、
電車が目の前を通り過ぎていく音がやっと、聞こえたかな?くらいだと言いました。
やがて両親は離婚し、母がわたしを遠い病院まで連れて行ってくれる日が続いてからしばらく、
通院をやめる日が来ました。
わたしを担当してくれたお医者さんは最後にこう言いました。
今は、まだ子供なので適応能力に期待して、このまま補聴器はつけないでおこう。
ある日、急に聞こえるようになった患者さんもいる。
けれど、そのままもう戻らないことだってある。
と言うようなことでした。
わたしは今、普通に仕事もできて、普通に生活ができています。
片方は無事なので、聞こえにくい方をかばっています。
それでも、聞こえないほう側から人が話しかけてきたりして、
ただ聞こえないだけなのを、その人が、無視した、と勘違いして怒ってきます。
とくに、大人がそうでした。
わたしが礼儀知らずに見えたのでしょう。
それが原因でわたしは人が近づくと軽い恐怖感を感じます。
滅多のことがないかぎり、あまり人と接触しない癖がついたのもそのことがあってからです。
そうしないと自分の身が守れないからです。
言うと理解は示してはくれるのですが、会う人全員に同じ説明をするとわたしも疲れてしまいます。
なので、言いません。
でもわたしも、周りの人々も困ったりはしないので、これでいいと思います。
ちなみに障害者手帳は、申請を願い出てはみたのですが、結局取れませんでした。
片方は無事だし、悪いほうも、聞こえないレベルの規定値に入ってないため、だそうです。