障害を持ってはじめて分かる世界

もしも、朝起きて体の一部が無かった時、あなたは何を思うでしょう?

私は元々は身体的になんの問題も無く身体機能に不自由さを感じている人達の事など、

日常において微塵も考えないそんな人間でありました。

何不自由ない暮らしが当たり前だと感じ、弱者が目の前に現れたときにだけ

初めて自己満足にも似た正義感を振りかざしており、そんな自分を優秀な人間とも思っておりました。

 

そんな優越感にまみれた私はある日突然として、片目の視力を失いました。

その経緯をかいつまんで言うと自分自身が起こした事故により意識不明の重態になり、

意識が戻ったときにはその時の怪我が原因で片目の視力を失ったわけですが、

その後の生活はそれまでの自分を支えてきた世界とは一変し、

いかに今まで根拠の無い薄い自信に支えられていたことだろうと、

二度と戻らない視力の事を考え眠れぬ夜を何度も過ごしました。

 

障害を通してみる世界は実にシビアであります。

今の日本の社会では片目だけの失明は障害と受け取られず

就職や免許などチャレンジすらさせてもらえない場面が多い反面、

はたからみて何か障害があると分かる私は、私生活においては障害者という枠で区別されます。

 

最初に一言だけ言わせていただけるのであれば、

「私は確かに身体的に障害を持ってはいるが、精神的には成熟した大人であり、同年代となんら変わらない」

と声を大にしたい。

これは私だけでなく障害を持っている人間に少なからず共通する意識だと思うが、

自分自身と接する時に障害有る無しを念頭にして欲しくない。

 

五体満足の人間からみれば弱者に分類されるかもしれないが、決して心まで負けてはおらず、

自分の受け入れるべき現実と向き合い五体満足の人達と同じように自分の人生を歩んでいる。

わずかな事に手を差し伸べていただける事は非常にありがたいが、

自分で出来ることは自分でこなしていきたい。

一人で出来ることすら他人の手を借りてしまったとき、自らが弱者と認めてしまっている事に他ならない。

 

本当に困ったときはその程度にこだわらず頭を下げる事はできる。

あくまでも障害者という枠ではなく、一人の人間として接して欲しいという希望が心の底にあります。

 

私は後天性の障害になりますが、両方の立場に立ったことにより初めて見えてきた世界があり、

先天性の人の気持ちは分かりません。

でも社会に出ようとしている障害者の方は少なからず、普通でいたいと思っているはずであります。

普通で有りたいから障害者という枠に収まり自分を過保護にせず

社会にチャレンジしていきたいと思っておるのです。

 

しかしながら勘違いして頂きたくないのは、みなさんの気持ちに飾りがあるかどうかはすぐ分かります。

どんな考えの下、動いていたとしても、その行為自体は非常にありがたいものであるということです。

決して自分の状態にいじけているのではなく、

自分の心と戦っているいる障害者もいると言う事がみなさんに少しでも届いたらと思う次第です。



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