脳性小児麻痺です

私は脳性小児麻痺で障害者です。

私の場合、子供のころ疫痢という病気になり、熱が何日も続いてひどかったようです。

それでその熱のため言葉も言語障害になってしまいました。

幸いそのあと言葉の訓練をやったおかげで今は言葉も話せます。

しかし熱のため足も歩くことが不自由になり、その当時は歩けなかったそうです。

訓練をして、歩けるようになりました。今でもがにまたです。

 

学校も、学年を遅れて上がりました。

このころの記憶はおぼろげですが、学校も1年と2年は普通の学校に行き、

3年4年になると養護学校若草学園に行きました。

そこにいると、元気に遊んでいたそうです。

 

そのあとまた5年と6年とまた普通の学校に行って、

中学校にあがり1年生も普通の学校に行きましたが

思春期で私の歩き方を酔っ払いだなんて言われ、

そのことが原因で劣等感を持ち学校に行かなくなってしまいました。

今でいう登校拒否になってしまいました。

 

そのあと、中学校2年から高校3年まで野沢養護学校に行きました。

当時は障害者だから学年おくれても、すむことでした。

今では、そうは行かないと思いますね。

 

親は養護学校ができたので、養護学校に行けばまた元気になるかなとと思っていれてくれました。

その結果元気になれました。

社会人になった私はタイピストになりたくて、宇都宮の指導所に通いました。

今でいえば、身体障害者の訓練校ですね。そこで1年勉強しました。

 

今度こそ本当の社会人になって、日光地区広域行政センターに入り公務員として一生懸命働きました。

そこでもなかなか仕事にも慣れず大変でした。

こんなこともありました。

「どうせ仕事ができないのだから」と言って、給料を投げてよこしてきた人もいたんです。

その時はとっても悔しい思いをしました。

もちろんいい人もいて、仕事をよく教えてくれた人もありました。

 

今は、あと少しで65歳になります、

65歳ともなると障害もだいぶ悪くなってしまい、

今は、軟骨がすり減り、這ってようやく歩いているようになってしまいました。

今の等級は4級なんですが変更をしてもらおうかなと思い申請しましたがしてもらえませんでした。

これはなんどやってもだめでした。しかたないとあきらめました。

 

障害者である私を面倒みてくれている姉妹は、言いたいことを言ういうものです。

買い物をお願いすれば、あなたのためにやっているのではないわ、なんて言われてしまいました。

障害者として送る生活は確かにつらい思いをすることが多いです。

しかし人間、喜びばかりある人生でも、つまらないのではないでしょうか?

私の人生もまあ色々あって、いい人生といえるのではないでしょうか。



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