生まれつき目がみえません

私は先天性の緑内障により、生まれつき目がみえません。

正確に言うと色や形が若干みえる程度の手動弁という状態です。

 

母は産まれるまで自分の子供が障害者だなんて思いもせず、

それはそれはショックで落ち込んで大変だったとよく今でも話を聞きます。

まだ産まれてまもない私をあちこち病院に連れ回し、

色々な手術をしまくったとのことでした。

 

おそらくあの時に必死で病院巡りをして色々な手を施さなければ

私は物心ついた時には光すらみることなく人生を過ごしていると思います。

 

私はおかげで入退院を繰り返す日々だったので、すっかり人間恐怖症になり、

とんでもない人見知りと夜泣きで母は毎日へとへとだったと言っています。

 

小学校は普通の小学校に入学しました。

当時はまだ拡大すれば普通の文字を読めたので、

普通の学校に行ってほしいということで、通うことになりました。

 

今思うと母もまだまだ子供の障害を受け入れられなかったのだと思います。

なるべく普通のこと同じように過ごして同じようにやってほしい。

障害なんかに負けずにみんなと過ごしてほしい。

おそらくそのような感情だったのでしょう。

 

私は障害はマイノリティではないと思っています。

健常者と同環境で同じように過ごすことが、

必ずしも障害に勝ったとか乗り越えたとは一概には言えないと思います。

 

私自身もまだ模索中ですがおそらく自分のできる方法でできることをこなし、

可能な範囲で自立するということが本当に障害を受容し、のりこえられたのだと思います。

 

しかし小学1年の私にはもたろんそんなことが理解できるわけもなく、

なるべくみんなと同じじゃないと恥ずかしい、他の友達がやらないようなことは目立って嫌だ。

そんなことを思うようになりました。

 

なので教師などが点字や白杖などを勧めてきても

なんで自分だけそんな物を使わないといけないの?

目立つし恥ずかしい、それに私だってみんなと同じような物を使えるし使わせてほしい

そう思って過ごしていました。

 

しかしやはり高学年になるに連れて漢字も難しくなり、地図や図形も複雑になり、

拡大すればすべて解決というようにはならなくなってきました。

なのでついに中学校からは盲学校に通うことになりました。

その時やっと両親も肩の荷が下りたような、

もう周りに合わせて頑張らないとと言う気持ちからから解放されたと言っていました。

 

私もこの時初めていかに自分が周りに合わせて自分らしさを出せなかったか、

無理をしていたかを思い知らされました。

 

しかし小さい時には培われた意識というのはとても強烈でした。

学校内では平気でも外に出た途端白杖を持てないのです。

みんながこっちを見ているような、とても目立つことをしているような

恥ずかしい感情に囚われて耐えられませんでした。

 

おそらく幼少期の過ごし方が無意識に、自分の障害を否定し、

なるべく目立たぬよう普通にみえるよういたいという感情にさせたのだと思います。



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